モリの洞窟
モリエールの妄想の洞窟へようこそ
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傾いた月の光が差し込む天使の館の一室で、上官の天使は広い壁に掛けられている大きな鏡を見つめていた。
見習い天使の金髪よりも、ずっと色が濃く長い金髪が覆う姿が、薄暗い部屋ともにその鏡に映りこんでいた。
「…遅い…。何かあったのだろうか…」
想いに沈んだ眼差しで、ただ自分の姿だけを映す鏡を見入っていた。
キイィ…。
部屋の扉が恐る恐るといった様子で開き、上官の天使は、ハッとして扉を見やった。
少し開いた扉の向こうから、星明り色の輝きが、暗い部屋に明かりを伸ばしてくる。
「星の子…。戻ってきたのか…、遅かったではないか」
「あ、すいません」
そっと中をうかがうように星の形の頭が覗きこんだ。
「あの…、私は違う星の子です、ごめんなさい」
歩み寄ろうとしていた上官の天使は、声に足を止めた。
待っていた星の子とは、声があまりにも違っていた。
その子の声は、少し低めであるが、女の子の声であった。
「…いや、謝るのは私の方だ。悪かった」
「あ、いえ、上官の天使さま、謝らないでください。いつもよくあることですから」
見習い天使とともに下界へと降りていった星の子と、その子もまるっきり同じ出で立ちであった。
黒いつぶらな瞳が、よそよそしく上官の天使を見つめていた。
どうも緊張しているらしい。
その様子に、上官の天使は、すっかり顔なじみになっていた星の子のふるまいが、ずいぶん馴れ馴れしかったことに気づいて、つい口元に笑みを浮かべた。
見習い天使から位が上がり、誰もが一線を引くようになってからも、彼だけが当時と変わりなく接していたことに思い至った。
どの上官の天使より厳しい佇まいなために、星の子は扉に張り付くようにして、その顔を見上げていた。
上官の天使の口元に浮かんだ笑みに、抱えていた緊張がいく分かほぐれていった。
用事を託ってきたものの、どのタイミングで扉を開けたらいいものか、長いこと扉を前に悶々としていたこの星の子は、やっとひとつクリアしたことに安堵した。
「何か用か?」
「は、はい。上層の天使さまからです。『掟の通りに』このひと言だけ伝えるよう言われてきました」
「…『掟の通りに』…。言われなくても、わかってる」
「ですが、上官の天使さま、ここは『鏡の間』です」
この部屋に向かってくる途中、廊下にいる他の上官の天使たちが、ひそひそとささやきあっていたのである。
配下のものが試練を受けている間、下界の姿が見れる鏡のある部屋にいるのは掟を犯すのではないか?
上に当たる者もまた、試練の時なのだから。
そう、銘々にささやきあっていた。
この天使の国で、メッセンジャーとしての役割を担っている星の子たちは、何より建物の配置や、国の隅々まで覚えさせられる。
館にある部屋の名前と場所もそうだ。
ただし、星の子は言伝がなければどの部屋にも立ち入ることができない。
空にあるときと同じで、館の外で瞬いていなくてはならない。
この館に出入りを許されてまだ一年ほどのこの星の子は、いつも扉を開けるとき、ひどく緊張した。
自分の姿を目にしてくれる、話をしてくれるということ。
まだ嬉しさよりも、緊張の方が勝っていた。
上官の天使は、そう告げた星の子をじっと見つめ、そして今まで見つめていた鏡へと視線を戻す。
鏡の中で面と向かい合っているのは、上官の天使の姿だけであった。
「下界をのぞいたりはしない…」
「では、なぜ…?」
「この館の中で、この鏡が一番下界に近い存在だからだ。私は祈るほか、何もできない。せめてそばに、そう思っているだけだ」
「……」
愁いを秘めた眼差しを、星の子は見つめた。
皆が言っているように、この上官の天使は鏡を使ったりしないだろう。
ただ心配してこの部屋にいるのだと、そう実感した。
「…独りで暗い部屋にいると、かえって想いが深くなります。私がこの部屋を照らします」
「いや…大丈夫だ。じきに二人は戻ってくる」
「私と見間違った星の子は、この任務を終えたら運命の扉をくぐれるそうですね」
「ああ。戻ってきたら、星の子としての役割を終えることになる」
「…ふたつの任務を終えたら…強くなれるのでしょうか…」
「お前は、まだ任務をやったことはないのか?」
「はい…。何ヶ月か前に任務の話をもらいましたが…、受けれませんでした」
「受けなかった?…何故…」
そうそう巡ってこない任務を断った。
相変わらず扉に張り付いている星の子を、上官の天使は手招きして部屋に招いた。
部屋の中央へと飛んできた星の子の輝きが差し込んで、鏡にもほのかな光が灯る。
「この館に来たばかりの私に、まさか早々に任務が当てられるとは思ってなかったので…。それに今まで住んでいた街を通るのは…」
「…辛かったか…」
「…はい…」
うなだれた瞳に、流れないまでも涙が揺らめきはじめた。
その姿に、上官の天使は瞼を閉じた。
共に人の世界へと下った時、星の子がひどく辛そうだったことを思い出す。
手に取るように、家族の過ごす様を見ているというのに、その想いを家族に伝えれない悲しみ。
何年も、何十年も。
生きて暮した年月よりも遥かに長い時間を、悔やみながら過ごしてきた空。
今夜も、辛い瞬間を飛んでいったのだろう。
任務に選ばれる星の子は、必ずといっていいほど、目的地への通り道にかつて住んでいた街が近い星の子が選ばれる。
過去を振り切り、越えていく強さを求められる。
「あの子も、ずいぶん辛そうだった。だが、運命の扉をくぐりたいという気持ちの方が強かった」
「お前も、乗り越えれるはずだ。このままの自分でいいのか、よく考えてみなさい」
「…はい…」
自分を殺すという過ちを犯してしまった星の子たち。
空を彩る星の子は、どの子もうつむき、言葉もなく、泣いてばかり。
この館に入ることを許された星の子は、そこから這い出た子たちだ。
過去を悔やみ、心を揺らしながらも、一歩踏み出す力を得た子たち。
やり直すチャンスを、神は与える。
失ってしまった生きたいという力を、二度の試練で与えるのだ。
上官の天使の言葉に、じっと耳を傾けていた星の子は、翳った顔つきのまま返事をした。
言葉はすぐに心には届かないだろう。
何度も反復し、いつか任務が廻ってきた時、彼女の背を押すことだろう。
「…?」
部屋の外が騒がしくなってきた。
上官の天使と星の子は扉を振り返る。
「帰ってきたのかもしれませんよ。私、行って様子を見てきます」
ふわりと宙に浮かぶと、星の子は扉の前に行き、大きな扉を開いて廊下に出て行った。
パタリと扉が閉まった途端、また星明りが差し込み星の子が血相を変えて飛び込んできた。
「た、大変ですっ!!まだ二人は戻ってきてないのに、運命の扉が開いたそうです!」
「扉が…開いた…!?開いただけか?」
「通っていったそうです…。星の子が…」
上官の天使は、言葉も無くただ立ち尽くした。
「いったい何があったのでしょうか?案内を失って、見習い天使は戻ってこれるのでしょうか?」
任務の途中で運命の扉が開くということは前例がない。
「何があった…、星の子…」
上官の天使は、細長い窓の外に輝く月を見つめた。
月は小さく傾きかけてきている。
運命の扉をくぐるのは、星の子の願いであった。
だが、まだ任務は終わってはいない。
星の子を失って、見習い天使はどうしているのだろう。
そして運命の扉が開くことになった原因とは、いったい…。
この事態に、上官の天使は何もできない。
様子を見るために、鏡を使うことも許されない。
白く長い指先を、血の気が失せるほどに握り締めた。
ただ祈るだけ…。
それだけしか許されない自分が歯がゆかった。
路地裏から出て、見習い天使を先頭に歩道を行く。
街は寝静まり、街灯のオレンジ色の明かりが平坦で少し湾曲した通りを薄暗いながらも照らし出していた。
人気のないその道を、やはり死人形たちが徘徊していた。
見えていない。
そう思っていても警戒してしまう。
さっきも結界の中にいたというのに、空を飛ぶ死人形はそこにいることに気がついたのだ。
知らず大声をあげてしまったのだろうか?
見習い天使はあちこち不安そうに見やって歩いていた。
「こっちでいいんだな?」
黒い翼をしまって、一見普通に人間に見える悪魔が斜め後ろについてきていた。
闇色の髪の毛から角が出ている以上、普通とはいえないけれど。
そしてパタパタと羽音を立ててコウモリもついてくる。
奇妙な一団であった
「うん。星の子はこの街を越えていこうとしてたんだと思うの…。まずはこの街から離れて、明るくないところから目印を探さないと」
「目印ってなんじゃ?」
「青く光る星のところに、天使の館に戻る雲のトンネルがあるんだって」
「しっかし、来るときどうやって来たんじゃ?来た道を戻るだけじゃろ?」
「移動しているんだって、星の子が言ってた」
「ふ~ん…」
悪魔が考え込むようにつぶやいた時だった。
ちょうど通りがかったパブと書かれた看板のしたの扉が大きな音を立てて開き、見習い天使は驚いて後ろに仰け反った。
中から放り出されるように、中年の男性が転がり出てきて、レンガ敷きの歩道に横たわった。
その人間はすぐに起き上がり、店の中に聞こえるように暴言を吐いた。
「…これが酔っ払いというんじゃ」
呆れるようにコウモリは見習い天使にささやく。
かなりの酒を飲んでいるようで、ろれつの回らない口調で大声で叫び、閉められた扉が開かないことに、チッと舌を鳴らすとよろめく体で一団に向かって歩いてきた。
見習い天使はあわてて道を譲った。
天使も悪魔も見えていない人間は、目線の合わない顔つきで、間をくぐっていった。
「本当に見えてないんだね…」
不思議な感じであった。
その人間の後ろ姿を見送っていたところ、路地からぬっと出てきた死人形とその人間がぶつかるのを見た。
「あっ!」
まるで実態のないもののように、死人形の体を人間は通り過ぎていった。
死人形の方も、まるで気にとめていない様子で、そのまま通りを横切っていく。
「あ!」
人間は数歩進んで、崩れるように膝をついた。
「あの人、大丈夫!?」
「生体エネルギーを少し吸い取られたんだろう。すぐ元に戻る」
悪魔が話した通りに、見ているうちに、人間は立ち上がり、またヨロヨロした足どりで通りを去っていった。
「動いている以上、ハラが減るってことじゃな」
コウモリはそう言って、見習い天使の頭の上にのった。
「や~だ。何で頭にのるの~?」
「ふん。飛んでるとハラが減るからじゃ」
「私じゃなくって、お仲間のとこにとまってよ」
見習い天使は片手でコウモリを払い、宙に浮くコウモリに向かって言った。
「や。ジイは仲間じゃないし」
「ひどっ!」
「ジジイ扱いするくせに、冷たいんじゃよ」
「文句言ってないで、さっさといけ、デコジイ」
「やっ!?一緒にした!!」
「うわ!センス最低じゃ」
まるで隠れるように、またコウモリは見習い天使の頭にのっかり、ふわふわしている金髪をかきあげた。
「やっ!?何するの!?」
「消されないために、隠れてるんじゃ」
「全然隠れてないし。その髪ごと消してしまおうか?」
悪魔は冷酷な眼差しを向けていて、パチンと尖った指先を鳴らした。
「やっ!?髪の毛消されるのはいやあああ」
見習い天使は禿げになった自分を想像し、真っ青になって、コウモリをのっけたままレンガ敷きの通りをひた走った。
「おや、結構足が速いんだな」
悪魔は口端に長い犬歯をチラっと覗かせると、軽快な大股で後を追っていった。
「邪魔だ。そこをどけろ」
ギラリと光る眼が見習い天使を睨みつける。
思わずその迫力に喉を鳴らす。
けれど見習い天使は恐れながらも首を横に振った。
そうしている間にもかぶさった死人形によって、結界は軋み続けていた。
空気が揺れる。
そして悪魔と向き合っている見習い天使の背後からは、死人形が放つ冷気がじんわりと沁みこんでくるように伝わってきた。
天使の翼を持った死人形。
その中には、天使だった魂が取り込まれている。
「…君には、その死人形は救えない」
「でも…!」
「腕の中の天使でさえ、連れて戻れるかも不明な君に何ができる」
「うぐ…」
痛いところをつかれて、見習い天使は唇を噛んだ。
ひとりで何もできないあまりに、この悪魔に手助けを乞うたのだ。
「中に天使が入っておったからといって、そのものは今や死神の道具にすぎないじょ」
「わかったら、さっさとどけろ」
「あう!」
小さな天使の一声に、見習い天使はその瞳が見つめる先、自分の後ろを振り返った。
四角く開いている死人形の口の中に、白い手が見えた。
自分と同じ位の大きさの手が。
『…た…す…けて…』
かすかな声が耳に届いた。
「誰?」
死神が手に入れたという小さな天使の声?
声は小さい天使のものには思えず、けれど大人のものとも思えない。
「何を言ってるんじゃ? 声なんて聞こえんかったじょ?」
手は出すことができないのか、四角い空間の中で懸命に指先を揺らしている。
見習い天使は、その手を掴もうと手を伸ばした。
いっそう冷気を強く感じる。
あと少し…。
そう思った瞬間だった。
暗くなっていた死人形の小さな丸い眼が発光した。
覆いつくしていた白い体がぐっと縮まった。
と同時に、見習い天使は襟首を掴まれ、悪魔に抱え込まれた。
そして目の前に伸びた悪魔の右手が白い光を放った。
「吹き飛べ」
結界は破裂したように持ち上がり、被さっていた死人形の体を向かいの建物にぶつけて消失した。
建物を覆うレンガが崩れ落ち、土ぼこりが上がった。
「なっ!?」
辺りを徘徊していた死人形がいっせいに振り返る。
悪魔は至極冷静な顔で口元を上げて皮肉めいた笑いを浮かべると、指を鳴らした。
薄いベールのような結界が、今度は個別の小さなものが降りてきて、周りを覆った。
違和感を覚えた死人形たちであったが、結局見つけることはできず、また歩き始めた。
「じゃ、行こうか」
「え?あ、あああの、羽の生えた死人形は?」
破壊された壁と、悪魔のひょうひょうとした顔を交互に見やって見習い天使は言う。
「放っとけ。ダメージを与えただけだ」
「でも」
「ばかか!!」
「ひいいっ」
頭のてっぺんの髪の毛をぐいっと持ち上げられ、見習い天使は悲鳴を上げた。
「他人の心配より、自分の心配をしろよ!」
「いた、いた、痛いです。あ~う、髪の毛とれちゃう~~」
「とれたら、この契約の不足分としてもらってやる」
「ふえええ~~、とれちゃやだ~。ただでさえ前髪薄いのに~~~」
「さっさと、天使の国への道を見つけろ」
「は、はい。み、見つけます。だ、だから早く離して」
呆れきったため息とともに、見習い天使は離してもらえた。
思わず頭を垂れる。
髪の毛の根っこがジンジンと痛む。
見習い天使は涙目になって、悪魔を見上げた。
「ほら、行くぞ」
すっかり怒らせてしまったようだ。
はじめてあったあの瞬間の優しそうな態度は片鱗も今は見当たらない。
どこか禿げ上がったのではないかと、見習い天使は気が気でなかったが、冷たい悪魔の目線の中、頭を撫でることもできず、薄暗い路地を後にしたのであった。
「むっぐ…!」
見習い天使は悪魔を押しやろうと必死に片手で押す。
小さな天使を抱えているため両手が使えないのだ。
けれど、両肩をしっかり掴まれていてちっともびくともしない。
そうされている間に、足元の炎の模様は音もなく燃え尽きるようにして消えていった。
もがいている様子が面白いのか、悪魔の重ねている唇が笑むように少し動いて、それから離れていった。
「なっ、なにすんのよ!」
「ああ、契約の印をつけただけだって」
クスクスと楽しそうな顔で悪魔は答える。
「別に口じゃなくってもいいんじゃけどな」
結界の中でパタパタと羽ばたいて、コウモリは呆れた声でつぶやいた。
「えっ!?」
「ま、いいじゃないか、へるもんじゃないんだし」
何となく解せない顔つきで、見習い天使は悪魔を睨んだ。
睨まれて、悪魔はかえって目を細めて、口元にチラリととがった歯を見せて微笑んだ。
「さて、契約の儀式を終えたことだし、そろそろ移動しようか」
「移動?」
「天使の館に向かいたいんだろう?」
「あ、うん、そうなんだけど…」
「…だけど…?」
「だけどって、何かあるんか?」
二人の視線に、見習い天使は目を泳がせた。
星の子の反応もあって、至極言いにくい気がする。
「もしや…、アンタ、天使の館が何処かわからないんじゃ…?」
「バーカ、ジイ。いくらなんでも、そんなはず…」
見習い天使は、えへへと力なく笑い声を上げた。
「笑ってる場合かっ!」
「はうっ!!」
悪魔に脳天チョップをくらわされ、見習い天使は天使の輪のなくなった頭を片手で癒すようにさすった。
「痛いよう~。もう、何で叩くの~?」
見習い天使が頭をさすっている間に、コウモリは羽音を立てずに、悪魔の肩に止まり耳打ちした。
「坊、この後、どうするんじゃ? 計画通り、天使の輪は手に入ったし、撒くんなら簡単そうじゃよ」
「……」
「坊、聞こえてるじゃろ?どうするんじゃ?」
「…まだ、夜明けまで時間はある。もう少し付き合ってやってもいいんじゃないか?」
「坊…!もらうものもらったら、トンズラするって話しじゃろ? もう少ししたら必ず死神はやってくるはずじゃ」
「だから何?」
「冥府のものとのいざこざは、アンタにはマイナス要素になるじゃろ。アンタの魔力じゃ到底…」
悪魔の底光りする眼差しが自分を見据えていることに気づいて、コウモリは思わず息を飲んで黙った。
「オレの魔力は死神より劣るっていいたいわけ…?」
「い、いや、今、やっかい事を起こしたら、アンタの出世にケチがつくじょ、ワシはそれが心配なんじゃ」
「…ふうん。何か、言いかけたことと、ずいぶん内容が違う気がするんだけど…」
「と、とにかく、あの死神が若造だからって、力試しなんて気をおこすんじゃないじょ。ワシはお目付けなんだから、口は挟むじょ」
「はいはい」
眼差しの冷たさが幾分か和らいだのを見つけて、コウモリはホッと息を吐いた。
「ったく、坊は気まぐれだから困るじょ…」
コウモリがつぶやいた途端、あ~う~と、小さな天使の声が上がった。
「ん?どしたのおチビちゃん?」
見習い天使が顔を覗くと、小さな天使は目を大きく開けて空を見つめて、もみじのような手を振っていた。
「え、何?」
皆が空を仰ぐ。
ビルの上から白いものが降りてきた。
四角い体から羽がはみ出している。
そう、それは翼の生えた死人形であった。
近づくにつれて形が変わり、体が何倍にも薄く延びて、見習い天使たちがいる結界を覆うように降りてきた。
「ひゃ!」
「アイツ、結界ごと取り込むつもりじゃ。どうする?坊」
結界の天井に貼りついて、間近に見るその体の中心には死人形の文字が広がったなりにくっきりと現れていた。
伸ばされた体の端には無数の白い手があって、結界をくるもうとうごめく。
「ひっ!何じゃこの気持ちの悪い手は…!?」
「死神の人形には1ダースの魂が使われている。その魂の手ってことだろ」
「1ダース?ずいぶん詰め込んでるのう…。ひ~ふ~…でも、22本しかないじょ?」
結界の中を飛んで、コウモリは周りを囲む手を数え、不思議そうに首を傾げて悪魔を振り返った。
「…多分、魂の一体は器として使われているんだろうな」
「死神が…言ってたの。小さな天使の魂は、お人形さんの器に丁度いいって…」
「ふうん。じゃ、この翼の生えたのは、天使の魂を使って作ったヤツなんだな」
「でも、おチビちゃんの羽にしては大きすぎると思わない?」
「大きすぎる?」
見習い天使の話に、悪魔はもう一度死人形を見上げた。
かといって、今ではもう体が変形してしまっていて、羽など見えはしなかった。
「死神が工作したんじゃないじゃろか?」
「工作?」
「本質をもとに形を変える。ま、どんな技を作ったか知らないけど…」
ミシリ…。
結界にかぶさり、隅々まで伸びた死人形の体のせいで、加えられた圧力に中の空間が軋んだ。
「坊…!このままじゃと結界が壊れる!」
皆の不安な顔つきに、悪魔は唇を歪ませて笑った。
「…こんな操り人形など、消し去ってくれる…!」
鋭利に尖った爪の並ぶ右の手を悪魔は掲げる。
「結界ごと吹き飛べ」
「待って!!」
見習い天使は羽ばたいて、悪魔が見上げる死人形の間に飛び込んだ。
「怖い?」
ふと口端を上げて悪魔がささやきかける。
「こ、怖いよ」
見習い天使のうわずった声音に、悪魔は目を細めて笑いを漏らす。
赤い炎が起こすゆるい風に、悪魔の闇色の髪がたなびく。
「何で笑うのよ。怖いの当たり前じゃない」
「いや、だって、普通もっと強がってみせない?」
「怖いものは怖いもん」
「…やめたっていいんだけど…?」
「決めたから」
見習い天使の迷いない即答に、悪魔は目を見開き、そしてすぐに目を細めた。
「…OK。デコ、キミの叶えてほしいことは?」
「このおちびちゃんを無事に天使の館に連れて行きたいの」
「…だから、おちびちゃんを守って」
「自分のことはいいのか?」
「うん。死神が現れたのは私の失敗なんだもん。このコさえ無事なら…」
星の子の最期の願いを叶えるためにも。
後悔なんてしない。
天使の輪を失って、たとえ天使じゃなくなっても、それでも星の子との約束を守りたい…。
「願いを…叶えて…」
見習い天使は頭を垂れた。
悪魔は一歩二歩とゆっくり間を詰めてくる。
「…少し痛いかもしれない」
尖った爪先で、見習い天使の頭上に輝く天使の輪の繋がりを切り取った。
音もなく、いとも簡単に天使の輪は悪魔の手の中に堕ちた。
普段目にすることもない天使の輪が、淡い輝きを放って目の前にあるというのは変な感じであった。
見習い天使は、恐々と自分の頭へと手を伸ばした。
いつも少し触れるやわらかで温かい輪の感触は、間違いなくなくなっていた。
「変な感じ…。ね?天使の輪、あなたいったいどうする気なの?」
じっと手元の天使の輪を見つめている悪魔に、見習い天使は訊ねた。
何か考え込んでいる顔を、悪魔は上げて見習い天使へと目を向ける。
「別にすぐ使うってわけじゃないさ。とりあえずしまっておこうか」
そう言って、悪魔は手を合わせた。
薄くもない天使の輪は、まるで手の平に溶け込んでいったみたいに消えていった。
「あっ!?」
「大丈夫、しまっただけ。ほら」
ひょい、と悪魔が合わせた手の平を離すと、その間に天使の輪が顔をのぞかせた。
「え?すごい!便利だね」
「すごくもない」
悪魔はつれない様子でパチンと手を合わせ、そして手を離したが、もう天使の輪の姿はどこにもなくなった。
不意に悪魔は、見習い天使が頭を触っている手を掴んだ。
その手を掴んだまま、ゆっくりと下におろしていく。
「…デコ…」
呼ばれて、見習い天使は自分より高いところにある悪魔の顔を見上げた。
「キミの願いを叶えてやろう。契約の印を」
悪魔は身を屈めてきて、長い睫毛の覆う金色の瞳がどんどん近づいてきた。
まばたきする猶予も与えずに、見習い天使の唇を己の唇で塞いだ。