モリの洞窟
モリエールの妄想の洞窟へようこそ
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『ジェム』
『ジェム』
両親がボクを呼ぶ声が聞こえる…。
両親にとってのボクは、宝石のように大切な存在だった。
…でも、ボクは…、その名にふさわしい者ではなかった…。
死神にかつての名を呼ばれた途端、記憶は色鮮やかとなって星の子を襲う。
幸せな時間。
過ごしてきた数々の思い出。
それらはまるで走馬灯のように次々と色をなした。
まるで目の前でおきているかのように、懐かしい声が蘇る。
『お父さん、これは…?』
仕事から帰ってきた父に手招きされて外に出ると、少し古びてはいるが自転車が置いてあった。
『ジェム、これはお前のだ、さっそく乗ってみようか』
まだ自転車は高級品で、乗ってる人はお金持ちくらいの時代だった。
生まれつき右の足が少しビッコなボクのために、父は無理して手に入れてくれたのだ。
はじめて乗った自転車は、すぐにボクを夢中にさせた。
漕ぎ出すまでは大変だけど、走り出したら軽やかに風をきった。
景色が流れていく。
いつも抜かれてばかりのボクが、はじめて人を追い越すよ。
それはとても爽快な気分だった。
その日から、ボクは自由を手に入れた。
今まで遠かった学校への道のりも、自転車に乗れば早く行けるようになった。
いつも躓くのを気にしてうつむいていた坂道も、今は広がる街の景色を見ながら降りていける。
まるで翼を持った鳥のように、滑らかに風をきっていく。
世界はキラキラしていて、とても綺麗だった。
でも、それは長くは続かなかった。
授業を終えて学校を出ると、ボクの自転車の周りを年上の子達が囲んでいた。
ボクに気づくと意地悪い笑顔を浮かべた。
その子達の向こうにあるボクの自転車が目に入った。
壊された自転車の姿が。
『誰がこんなことを!』
『知らないよ、見つけたときにはもうこうなってたんだ』
『自転車なんか乗ってるからムカついたんじゃないの?』
ニヤニヤと言葉とは違う顔をする。
ボクはひどく腹が立った。
でもその子達はずっと背が大きく、体は大きくて、ボクは何も言えなかった。
ただ、くやしくてその子達を睨みつけた。
『何だよ、その目は!』
『俺らがやったとでも思ってんのかよ?』
『うあっ』
ひとりの子がボクを押してきて、ボクは簡単に尻餅をついた。
『文句があるならハッキリ言えよ!』
怒鳴り声にボクは身がすくんだ。
何も言えずに目をその子から反らした。
『けっ、この弱虫!ビッコのくせにヘラヘラいい気になって自転車に乗りやがって』
そう舌打ちして言うその子は見覚えがあった。
ここ数日、学校近くでボクが自転車で追い越してる子だった。
ベルを鳴らして追い越していくボクを、とがった目で見つめていたのだ。
『ボクはそんなつもりじゃ…』
自転車を壊したのはその子たちなのに、何も言えない。
やっと口にした声は震えて、すぐに途切れた。
『これ、高かったんじゃないの?』
『新品じゃなくても、結構するよな?お前の父ちゃん、かなり無理して買ったんだな』
『考えたよな、これならビッコのお前も早く走れるもんな』
『母ちゃん、喜んでたろ~?これでビッコで鈍いお前も小回りきくようになったからな』
『ばーか、お前ら、これ直すのに金かかるだろ?』
『おお、そうだ!これは大変だね。お前、これ乗ってけそうか?』
『無理無理~』
アハハハとその子達は愉快に笑う。
ボクはくやしくて涙がこぼれそうだった。
変わり果てた自転車を前に、ボクは黙って見てるだけだった。
それを買ってくれたお父さんの顔を、一緒に喜んでくれていたお母さんの顔を思い出しながら。
『家まで俺らが運んでやろうか?』
『い、いいよ…』
『遠慮するなよ』
『……いいよ』
ボクは立ち上がり自転車のハンドルを持ってやっとの思いで倒れている自転車を起こした。
歪んだタイヤにガタガタ上下に揺れる自転車を押しはじめた。
なぜか年上の子たちも並んでついてくる。
悔しいことに、ゆっくり歩くその子達の方がずっとはやい。
『お前、親に俺たちがやったとかウソ言うなよな』
『…言わないよ』
はやく去ってほしくて、ボクは泣き出しそうな顔に笑みを浮かべる。
『けっ、よくそんな顔でヘラヘラ笑えるよ』
『ああ、俺だったら怒るけどな』
口々に言い合い、そしてようやく遅いボクに飽きたのか、その子達はさっさと去っていった。
文句を言うことも出来なかった。
ましてや怒ることも。
ただ笑うことしか出来なかった自分が情けなかった。
今朝軽やかに走ってきた道が、壊れた自転車を押すボクには果てしなく遠く思えた。
空は夕焼けとなってきていて、いつまでも帰らないボクを、お母さんは心配しているかもしれない。
そしてこの自転車を見て何て思うか。
二人の顔を思い浮かべて、ボクは心がずしりと重くなった。
どうやって話したらいい?
どんな顔で話したらいいの?
お父さんはボクを哀れむような目で見るのだろうか。
お母さんはボクを可哀想と思うのだろうか。
昔から、ボクが足を引きずるたびに、二人の顔はそんな哀しみが浮かんでいた。
ボクは二人を哀しませてばかり。
この足が言うことをきいてくれなくて転ぶたびにボクは、本当はボクは悔しくて泣きたかった。
でも、いつもただ笑って頭を掻いた。
ボクを心配そうに見ているふたりに、これ以上哀しい顔をさせたくなくて。
いつの間にか、ボクは怒ることが出来なくなった。
ただ、笑ってみせることだけ。
でも今日は…どんな顔をしたらいいの?
そう思って見上げるボクの視界に、この街で一番高い建物が映った。